「くぼたん」謎解き

ちょっと、末端地域ネタ をいきます(笑)

わが村「くぼたん」のお話です。

「窪谷」の名のとおり、普通は人が住まないようなところ…
なぜ人が住んだのか?
それは人が行き交う拠点だったということ。

多分、地域の方以外は興味ないかもしれません。
でも、松上げ行事を知る上では参考になるかな??

久々の写真なし長文です。

今年に入り、8月23日に行われる「松上げ」の実施日変更の
議論があるので、松上げの根本に迫ってみましょう。

松上げ行事は、京都洛北の山間部である広河原・花背・久多・
美山など、福井県に入ると旧名田庄村各地、小浜市の中名田
地区・口名田地区に分布します。

このため、京都の愛宕神社から若狭小浜に至る道を

「松上げの道」

と呼ぶこともあります。

現在市内では口名田・中名田地区の5か所で実施されています。

単純に考えても、鯖街道は鯖などの海産物が往来した道ではなく、
京都と若狭が文化を共有した道なのです。

ちなみに、火というキーワードから、愛宕権現(現在の愛宕神社)
との関連がよく言われる行事です。
愛宕山は役行者と泰澄の開創を伝え、修験道(山伏)との結び
つきが江戸時代まで非常に深かったところです。

松上げは、元来、火の神である愛宕権現の縁日(本地である
地蔵菩薩の縁日)である8月24日に行われるところが多かった
と想定されます。
ただ、火伏せだけでなく盆の精霊送りや五穀豊穣祈願などと
融合して、8月15日から9月初旬にかけて各地さまざまな日に
実施されるようになっていきます。

お盆に近ければ「精霊送り」や「虫送り」の要素が強く、農家の
嵐の厄日である八朔(旧暦8月1日)や二百十日に行われる場
合は「五穀豊穣」を祈る要素が強いかな。

さて、各地の松上げの「願い」を現況調査すると、ほとんど火伏
せ、五穀豊穣を対等に願っています。
地域に勧請した愛宕社に参詣してから行事を行うところもあれば、
地域の社寺に願いをかけて実施するところ、松上げのみを単体
で行っているところと様々です。

「くぼたん」の松上げは、毎年23日に実施されています。
小浜の地蔵盆が23日に行われるところが多いように、
地蔵縁日の宵宮として実施されている由緒でしょう。

伝聞によると、古くは地域の山腹にある金毘羅宮にお参りをして
実施していたみたいですが、現在は山麓にある薬師堂に参詣し
てから実施されます。

金毘羅権現は山岳信仰と修験道が融合した権現さまで、
海上交通を司るといわれており、船運業者の信仰が厚いです。
江戸時代後期から、南川を川船で瓦が運ばれていたことを思えば、
川を見渡す位置ということもあり、おそらくこの安全を願って地域
有力者(山伏かも)によって勧請されたのでしょう。

南川流域の川近くの山には金毘羅さんを勧請したところがいくつ
もあります。この金毘羅勧請に合わせて松上げが始まったとも
想定されます。
また、江戸時代末頃に、もともとあった愛宕社に金毘羅を勧請
したとすれば、松上げの歴史はさらに古くなるでしょう。

でも、この場合は薬師ではなく地蔵となるのが本地の考え。
現在、松上げを行う前にお参りする薬師堂との関係を真剣に考え
ないと、くぼたんの松上げの歴史は解明されません。
このことについては以下ににまとめますが、江戸時代をさらに遡
る行事であることも検討要素となります。

今の松上げは、藁と竹でくんだ「もうじ」の先にカラスをつけます。
他の松上げには見られない特徴で、これが勢いよく燃えると
「五穀豊穣」だというのがくぼたんの特徴。

愛宕信仰から、地域に根差した豊作祈願に行事自体が移行して
いるのです。愛宕さんとの関係は現在見られないのです。
このことを考えれば、現在議論されている開催日の変更は問題
ないかもしれない。
由緒をしっかり伝え、何より続けていくことが一番大切だから。

これから、下記でご紹介する観音のご祈祷や六所神社祭礼も
現在では近い日曜日の実施になっていますしね。

いずれにしても、愛宕・金毘羅ともに修験道との関わりが深く、
地域の山伏がスタートを担ったということは想像に難くないのです。
今でこそ、山伏は絶滅危惧種・もの珍しいものですが、
明治初年の神仏分離や修験道廃止令前には、深く地域に関わ
っています。飯盛山登拝の拠点として生まれた「くぼたん」には
山伏は深く根付いているのです。

忘れかけていた歴史が、今の若峰講の講員によって受け継がれているといえます。



さて、地域の成立を考える上では、文書などの書物がないのであれば
社寺の成立から想像するのが一番。
社寺には仏像もあれば祭礼もある。これが地域の歴史の根拠ともなります。

松上げでは実施の前に薬師堂にお参りすると紹介しました。
この薬師堂のご本尊は地域で廃寺となった香梅庵のご本尊であったと想定
されます。香梅庵は真言宗寺院としての開創を伝え、江戸時代には興禅寺
末となり曹洞宗に改宗しています。
創建については、地域の産土神としてある六所権現(明治の神仏分離で
廃仏され六所神社になっていますが・・・)との関係が深い。
ちょっと窪谷(くぼたん)の社寺を整理してみましょう。


産土神   六所権現
       西宮社(恵比寿)
 
 六所を勧請しているあたり、神仏習合・修験道との関連が強いですね。
 14世紀初頭から窪谷(くぼたん)の名は見られるので、遅くてもこの頃
 には神社が勧請されていると想定するのが妥当。ただ六所としては
 徐々に勧請しているかもしれない。
 六所の内容は不明だが、薬師との関連を見れば祇園や熊野を含む
 だろうし、松上げと関連づければ愛宕を含むことになります。


神宮寺   牛王山勝願寺(馬頭観音)

 現在も六所神社と寄り添うように観音堂として存在します。
 縁起では大同元年(808)年の創建を伝えますが、
 ご本尊の様式をみると14世紀の作。
 窪谷の地名の出現と合致します。
 くぼたんの成立は鎌倉時代後半から南北朝時代初頭(1250~1320)
 くらいに位置付けられるかな。牛王山を名乗るところを見れば熊野や
 祇園との関連性を見過ごすわけにはいきません。
 また、小浜という都市(港町)が発展していくのと時期が同じであり、
 これまでの飯盛修験の拠点であった飯盛寺や中名田地区田村より、
 南川を遡って最も小浜から通いやすい拠点となっていくことが想定
 されます。これには、飯盛寺の関与が想定され、勝願寺を新しい
 飯盛修験道の拠点として開発したのではないでしょうか。
 南川流域の密教寺院の別当は、いずれも同谷系の谷田寺や妙楽寺
 であるのに、ここだけが飯盛寺別当であることがキーポイントとなります。
 
 しかし・・・
 勝ちを願う寺って・・・
 この名前だけでも曲者です。
 南北朝の争乱と関係あるのでしょうか???

飯盛護持院   醫王山隣慶院(薬師如来)
        香梅庵(薬師如来)


 いずれも、16世紀中~後半の創建を伝えます。
 ちなみに上記の神宮寺勝願寺は、この頃に織田信長に焼き打ち
 された伝承をもっています。文献では現れないので真偽は不明
 ですが、強い権力をもっていたため政治的に迫害された歴史を
 伝えているのでしょう。
 
 あるいは!信長の焼き討ちにあった比叡山や、その他の寺院から
 流れてきた山岳信仰者が開山したことを示しているかも・・・。

 このように飯盛山修験の本拠として発展していく中で、天台宗の
 護持院として隣慶院が、真言宗の護持院として香梅庵が成立する
 と考えられます。
 ともにご本尊は薬師如来。飯盛山登拝の飯盛寺や田村薬師など
 がいずれも薬師を本尊とするところにも飯盛寺との関連が深くみ
 られます。
 また香梅庵跡地からは多田ヶ岳が遥拝でき、多田修験との複合
 により繁栄していくことも念頭におかなければいけません。
 江戸時代に入ると、隣慶院、香梅庵ともに曹洞宗興禅寺末に改宗
 されます。これは、徳川家による修験道法度の制定、寺請制度の
 確定によります。
 家康は、より在家に近く経済まで担う山伏の掌握をするために、
 当山派と本山派に分けてしまい、山から離してしまいます。
 また、在家山伏を掌握するために一つの寺への帰属を位置付けて
 しまうのです。
 これにより山にいる山伏から、里におりて加持祈祷を行う山伏へと
 変化していきます。地域には当然継続した信仰者はいたでしょうが、
 「職」として港町小浜には数十名の祈祷山伏が出てくるようになります。

 このような中、くぼたんを含め、南川流域の近隣既存の密教、修験
 道関係寺院は、曹洞宗興禅寺末寺院として再編成されていくのです。
 再編成されないものは、地域の御堂(地蔵堂、薬師堂、観音堂)とし
 ての道を歩みます。
 これにより、山に入っての修行というものは廃れ、御堂ご祈祷という
 信仰に変化していきます。
 くぼたんの場合、六所権現と勝願寺観音堂をよりどころに、
 地域山伏は続いていったことでしょう。
 もちろん、隣慶院や香梅庵も密教や修験道の影響をすべて払しょくして、
 禅宗寺院として生き残ったとも考えられません。


くぼたん人は、山の民であることには変わりなく、戦後まで主要産業は
林業であり炭焼きでした。
ただ、もうひとつ。江戸時代のくぼたんの産業は「たばこ」です。
たばこは戦国時代末にポルトガルから移入されたものですが、
当初は薬として位置付けられ、山伏によって広まったということも言われます。
陀羅尼助丸などと同じですね。
これの栽培がなぜ「くぼたん」なのか。
ここにも山伏の影が見えます。江戸時代以降といえば、各地で行者講
が流行します。町山伏の布教により地域で講を組んで大峯へお参りす
るのですが、なぜか信仰厚いくぼたんには残っていない。
なぜ??やはり、飯盛山を起点として一人一人に信仰心があり、
大峯とも密接に関係していたからではないでしょうか?

もうひとつ、近代に入り飯盛山稜線で硅石採掘が始まるのですが、
これも山伏と山師の流れからきているのでしょう。
歴史上、鉱山にくわしくなる山伏の出現は必ずあります。

ただ、くぼたん人自体も、山の民から里の民へと移行していきます。
山の経済力を活かし、奥くぼたんから口くぼたんへと勢力を伸ばし、
水田耕作への転嫁が出てくるのです。この中で、香梅庵檀家が口
くぼたんへと移っているのが興味のあるところです。

明治に入り、くぼたんの社寺に大きな転機が訪れます。
いわずと知れた「神仏分離令」による廃仏毀釈です。
そして「修験道廃止令」です。六所権現にあったであろう本地の仏像
は廃棄されたと伝えます。
また、香梅庵は本寺の興禅寺と合寺してしまいます。
おそらく香梅庵の檀家自体が修験道と山離れが強かったのでしょう。
ただ、ご本尊は薬師堂に新たに祀られ、静かに信仰されていくことと
なるのです。
ここで、くぼたんと山伏の歴史は分断されています。

ここを調べることこそ、今の若峰講の一つの源流を探ることになるのでしょう。

もうひとつ、
今のうちに山の地名や山の伝承・伝説をまとめておく必要があります。
ここに歴史が間違いなく眠っています。

一昨年から、飯盛山登拝道を調べ始めているのですがなかなか・・・
休みは忙しいし、一人でできるものでもないですから。
熊もダニも怖いしね(+o+)

前記事の松上げ。
今も薬師にお参りすることを考えれば、六所権現、勝願寺、香梅庵と深く
関係しながら、江戸時代には行われていたかもしれません。

当初、会場自体が奥くぼたんだった可能性さえあります。

いずれにしても、山に根差し、山伏として生きてきたくぼたん。
その源流は随所にみられます。
今でこそ、絶滅危惧種である山伏ですが、
今から500年前~150年前には当たり前として地域に根差していたのです。

そして、その前の源流も小浜にはあるのです。
吉野、熊野、奈良、京都、若狭という深いかかわりの中で。

そして消えかけた歴史は若峯講によって継承されています。

歴史は完全に分断はされませんね(*^^)v

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プロフィール

若狭坊

Author:若狭坊
1970年生まれ。奈良大学史学科卒業。当時からの専門は中近世考古学、中近世流通史、中近世都市史。
と書くと難しい(^O^)
現在の専門は仲間と行う歴史を活かしたまちづくり。
だが、実は修験にめざめた山伏なのでアール。

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