若狭の社寺の由緒

社寺には縁起というものがあります。
開祖であったり、いわれであったり、変遷であったり。


社寺の威光を示すものなので、誇張されることがほとんどでしょう。
武士の家系図は必ず○○天皇から何代となるし、一般の旧家であっても武士や貴族の出を名乗ったりするのは100%信用はできないものです。

でも、そこから「真」を見つけ出すのも歴史を学ぶ者に必要なことなのです。


若狭小浜のお寺の開祖を縁起や文書から見てみましょう。

神宮寺 和同7年(714) 泰澄の弟子滑元・和朝臣赤麿
羽賀寺 霊亀2年(716) 元正天皇勅願
妙楽寺 養老3年(719) 行基が彫像
    延暦16年(797)空海が再興
谷田寺 養老5年(721) 泰澄
多田寺 天平勝宝1年(749) 孝謙天皇勅願・勝行上人
明通寺 大同1年(806) 坂上田村麻呂
極楽寺(現萬徳寺) 不明【天台宗⇒真言宗】
遠松寺(現円照寺) 不明【天台宗⇒臨済宗】
椿林寺(現飯盛寺) 不明【天台?⇒真言宗】

今年、若狭神宮寺が開基1300年を行いますが、以後続々と1300年ですね(^_^;)

① 考古学上の成果
いずれも平安期の仏像を持っていますが、奈良期まで遡ろうとすると、遺跡が調査された神宮寺のみになります。

② 開祖の考察
結構別れています。越前に行けば泰澄なのでしょうが・・・。
泰澄の存在を全否定はできませんが、中世以降に白山信仰を受け入れていく中での位置づけでしょうか?

妙楽寺は行基から弘法大師という王道を行っていますね。小浜の中では古くからの真言なので。空海の修行経路や渡航を考えれば全否定はできませんが。

明通寺は坂上田村麻呂。近隣にはいくつかの田村麻呂伝説があります。小浜ではやや後発する寺院なので、少なからず関係はあったのでしょうか?

これらはほとんどメジャーな高僧。

特筆されるのは若狭神宮寺と多田寺ですよね☆

神宮寺は何故泰澄ではなくて弟子の滑元なんだろう。
国史では赤麿なのだろう??
神宮寺には周辺地域もあわせ、和朝臣や秦氏との関係が随所に伝説として残ります。
若狭彦神は白馬にまたがる渡来人の姿に表されます。

多田寺は多田ヶ岳で役行者が修行した伝説があり修験根本を名乗った寺院なのに、なぜ役行者じゃないのだろう?
ちなみに多田寺の勝行上人は、同時期に東大寺僧として名が見られます。


多田ヶ岳山麓に早くから開かれた

「多太神社と多太寺」「若狭彦神社と神願寺」

2つの系列が若狭の古代をひも解くキーであることが縁起だけでも判ります。

でも、2寺とも東大寺との関係がみられる。
お水送りの歴史は、若狭神宮寺だけでなく、多田寺との関係も無視できないのです。


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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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プロフィール

若狭坊

Author:若狭坊
1970年生まれ。奈良大学史学科卒業。当時からの専門は中近世考古学、中近世流通史、中近世都市史。
と書くと難しい(^O^)
現在の専門は仲間と行う歴史を活かしたまちづくり。
だが、実は修験にめざめた山伏なのでアール。

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