小浜の中世神仏習合

職場の事務室が寒くてたまらない若狭坊。
これも経費削減のため・・・

でも手足先が冷えてどうしようもない(T_T)
極力動くようにしている昨今です。


先日、某神社で新年のお参りをし、読経していたら、親切心からご高齢の方に諭すように叱られました。

「ここは神域ですからって」(苦笑)

「いえ・・・山王権現と愛宕権現にお参りしているので」

と自信をもって言ったら、???の眼の後、睨みつけられました(笑)



さて、小浜の神仏習合は中世から現在に至るまで、どちらかというと仏教が非常に優勢です。
各寺院に住職はいても、地方としては珍しいくらい神主を職とする方が少ない地域です。

その理由・・・
1つは禰宜職を代々もつ家や、当番家が持ち回りして神事を執行していた(いる)というのもありますが・・・
もう1つは、そのような形態を包み込み、寺院が別当として神社(禰宜)を統括していたというところがあります。


若狭小浜では、日本の神仏信仰受容経過として国家と非常に強い結びつきの中、奈良時代に多田寺と神願寺(現神宮寺)が創建されました。当然、多田(多太)神社や若狭彦神社と深く関わりあいながら。東大寺とも関わり合いながら。

平安期に入ると、国家の信仰形態(確立された神仏習合)に取り込まれていく中、一宮と国分寺の力が強くなっていきますが、多田ヶ岳周辺の山岳信仰域には在地信仰と結びついた密教寺院が相次いで成立していきます。

これらの寺院は各谷の在地信仰をまとめて、そこにある多くの神社仏閣の別当として地域を統括していきます。
明通寺は松永谷や宮川谷、神宮寺は遠敷谷、羽賀寺は国富平野や西津、谷田寺と妙楽寺は名田荘谷、飯盛寺は加斗や海辺の村というように。

神社の勧請や遷宮、地域の堂宇の再興、祈祷などすべてを手掛けています。


いわば寺院(神仏習合信仰)の縄張りなのですが、大きな勧進がある時には、他の地域のテリトリーの協力を得たりもしています。

如法経料足という寄進方法で、テリトリーを中心としながらも、地域をまたいだ営業もしています。

全体の営業協力体制としては、小浜の町部ではよく「千部経読誦」を行い、明通寺・神宮寺・羽賀寺・妙楽寺・谷田寺が五大寺として導師をつとめています。相互協力に集まるのですが、会社が集まれば上下争いも起こる。上座下座争いも頻繁におこっていました(笑)
とにかくお金のかかる堂宇の新造や修繕。寺院間のネットワークとサポート体制は必要だったわけです。


ちなみに小浜の八幡さんも五か寺が協力の元、別当職を務め、江戸時代には谷田寺さんが別当。

僧侶により祝詞もあげられたでしょうが、読経が中心だったのですよ。
放生祭もね。仏教色の強い放生会ですね。


「神社と寺院は別物」
と刷り込まれている私たち世代には想像がつきません(笑)


ちなみに・・・
このような寺院間ネットワークを助けていたのが、各寺院に所属する山伏系の僧侶でした。
たとえば雨請祈祷の当番の寺院からは、「多田ヶ岳登番衆」が順番に出されていたところを見ても、根本中堂の回りの広大な敷地に12坊から24坊をもっていた各寺院には数多くの山伏系僧侶がいたことがわかります。
また、太良荘に見られるような熊野三山の山伏も協力していました。


彼らは、多田に峯入りする修験者であり、地域の代官でもあり、金融業者でもあり、全国を股にかける商社マンでもあり、兵士でもありました。
いまでは、こんな僧侶は生臭坊主みたいに言われますが、昔からお坊さんは経済人で政治もサポートしていました。

なお、山伏は得度ではなく在家信仰が基本。
信仰心の他、時事や経済、政治にまで精通していないといけなかったのです。
聖職者と一般の住民をつないでいたのです。


いつの頃から「僧侶」のイメージは、俗世間と離れたものになったのだろう??

小浜の国宝めぐりの寺は「寺宝会」を結成していたが形骸化が進んでいる。
お堅いお参り・信仰のみでは続くはずはない。

地域振興や経済発展を見越した新しい取り組みが今こそ必要ではないか?
お堅くなくていいんです!!


お金を稼がないと「信仰の場」を守ることはできないのにね!
信仰者の経済力がないと「信仰の場」は発展しないよね!
国家鎮護で、国が100%お金を出してくれれば良いけど、そんなことは歴史上は補完的なもの。
いにしえの寺院は、自分の堂宇を守るための活動もするし、地域経済発展のための活動もしていた。

「古いものを守る」という理念の文化財修理補助金で寺社を継承することは、良い事でもあるし、先を見失うことでもあります。注意したいものです。


もとにもどり・・・

神社では神主に祝詞☆
寺院では僧侶と読経☆

そんなことはないのですよ。

祈る心が大切。
「フォーム」より「ハート」です。
自然に生きる神仏を祈ることに形は必要ありません。

歴史が培ってきた地域性も大切です。
小浜の寺院は、多田が岳を中心とした神を鎮めるために神仏の融合を進めたのだから。

まあ、最近までは若狭小浜の神仏習合は仏教優先だったのです(笑)
別にどっちが良い悪いなんて言っていません。

日本の神仏習合では神社が優先のところもあります。
神主が仏典を唱えていたところもあるのです。
寺院で自然の神を祈ることを否定する必要はありません。


とにかく・・・
私が神社で読経することおわかりいただけましたか?
神社庁が示す、通り一遍の二礼二拍一礼にこだわらいないことおわかりいただけましたか?


若狭坊は修験者です。

でも歴史の流れから出てきているだけ。

突然変異でもなければ、誤った信仰をしているわけでもないのです。


明治以後の神仏分離と国家神道の時代から

ようやく日本人の心ともいうべき神仏習合がようやく再評価されつつあります。


追伸:若狭坊は神道を否定していませんからね☆


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プロフィール

若狭坊

Author:若狭坊
1970年生まれ。奈良大学史学科卒業。当時からの専門は中近世考古学、中近世流通史、中近世都市史。
と書くと難しい(^O^)
現在の専門は仲間と行う歴史を活かしたまちづくり。
だが、実は修験にめざめた山伏なのでアール。

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