今日も神仏な日


神仏ネタが続いています。
たぶん読者が減っています(笑)
仕事の関係もあるのでご容赦ください。

午後から一宮の本地仏であった銅像のお薬師さまとご対面。
もちろん重文。収蔵庫におわします。

NCM_0869.jpg

お像の背面には
「若狭国一宮本地 宝治二年戌申六月日」と刻されています。

明治の神仏分離で境内から退かれましたが今も近くで篤くお守りされています。

この時、退かれた梵鐘も近くに。「若狭国鎮守一宮 暦応二二年・・・」とあります。

NCM_0868.jpg

こちらは県指定。
神仏分離の大きな流れの中でもしっかりと守られた。ありがたいことです。

ちなみに下社からは、大般若経が出ておりますが、地区管理でしっかり守られています。
平安時代初頭のもので、こちらも重文です。



その後、町部の庚申堂さんの資料調査。

NCM_0873.jpg

青面金剛さまと太子さまを南無南無させていただきました。

こちら、江戸の由緒を文書類で拝見させていただくと、ある二坊にあった小浜修験が関与していることが判明。江戸時代の信仰を考える上でも、いい調査になりました。

最後は安国高成寺さまへ。

NCM_0874.jpg

今年、観音さまが重文になったので立派な紹介看板も出来ていました。

NCM_0876.jpg

こちらの千手さまは、何度かブログでもご紹介していますが、二宮の本地さまを山伏がこちらに移した伝承があります。中世から江戸時代にかけて、町部の信仰に修験が大きく関わっているのですね。


さて、今日のみなさまは、生々しい由緒をもっていらっしゃる方ばかりでした。
本来、人の信仰がある限りこのようなものなのでしょう。


小浜の寺院でも、行基、弘法大師、泰澄の伝説(由緒)、○○天皇勅願をもつ寺院が数多くありますが、ここから真の由緒や信仰を見出すことが大切ですね。

ちなみに、神宮寺は和朝臣赤麻呂、多田寺は勝行・・・結構生々しいです(#^.^#)

奈良から平安時代に相次いで創建された若狭の社寺。
平安時代末には一宮と国分寺の勢力が大きくなり、多田ヶ岳山麓の各寺院は、若干勢力をそがれています。

鎌倉以降、再び盛り返した各社寺は、在地の経済力を基盤に信仰をあつめ、根本中堂が相次いで再建されていきますが、その過程で由緒に何かがついていくのでしょうね。そこに「色付けされたもの」、「残っているもの」を探るのは魅力的です。多くの天台が真言になっていくあたりもそうです。

ここに、少なからず信仰として成立した修験が関わっているのは諸文献で確かですね。
信仰だけでなく、成立していく小浜湊の商活動ともリンクしていますから。


寺院の由緒書からアイテムを抽出し、時代背景を総合的に勘案する。
若狭の社寺信仰に眠っている「謎」は、まだまだあります。

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テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

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プロフィール

若狭坊

Author:若狭坊
1970年生まれ。奈良大学史学科卒業。当時からの専門は中近世考古学、中近世流通史、中近世都市史。
と書くと難しい(^O^)
現在の専門は仲間と行う歴史を活かしたまちづくり。
だが、実は修験にめざめた山伏なのでアール。

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