城から寺院へ

峰入りを数日後に控え、坐骨神経痛が強いので前行を取り始めています。

腕腰振り振り大股の寺社巡りウォーク六〇分から、まったりお散歩三〇分に変更。

大きく呼吸しながらのお散歩は気持ちいいです。
山・川・田園に囲まれた、すがすがしい空気がお出迎えしてくれます。

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毎朝菩提寺の興禅寺と産土神の若宮社にお参りしています。
若宮社はブログで何度か書いているので、今朝、興禅寺で気付いたことを少々。

小浜から京都へ向かう京道から坂道を登って山門・本堂・鐘楼・経堂などがあります。

これは山門。
京道から長い直線の坂参道を通った正面(写真は本堂への車道から斜めにとったもの)。

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江戸時代の寛政一一年の建立。
小浜にはめずらしく造作、彫物など江戸の華やかなものを伝えている。
小浜の社寺建造物は結構質素なんやけど。かなりの財力に支えられていたのだろう。
瓦は江戸末から明治初頭の感じ…。

山門から中を覗くと立派な一文字石垣。そして内枡形を形成します。


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中世城館の虎口ですね。
直線的に人を入れず、武者だまりを作ることによって攻め手を攻撃しやすくするもの。

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石垣は若狭守護武田元光の別所で菩提寺となった発心寺のものとそっくり。
中世末には城館だったのでしょう。交通の要衝を抑えているし。

この興禅寺。
川を挟んだ正面にそびえる谷小屋城の城主であった寺井日向守の菩提寺です。
室町期には京都で守護武田氏の外交官的な役割を果たした武将として注目されます。
一六世紀にには、在地武将化。争いの絶えなかった名田庄谷でも一勢力をもっていました。

江戸中期の文献では、当初の菩提寺は城に近い河川沿いにあって、洪水のために江戸時代の前半に今の地(街道から上がった高台)に移転してきたといいます。

たぶん当初は城館と菩提寺は分離していたのでしょう。
菩提寺が洪水で被災し、荒廃していた城館跡に移転したというのが筋道なのでしょうね。

まあ、素敵な城館跡なのです。

興禅寺。
享保頃には名田庄谷の曹洞宗を統括し、末寺二六か寺を数えた大寺院になりました。

昭和五九年、若狭坊が子供の頃。
本堂火災。

まだ中学生だった若狭坊。家から望む燃え上がる本堂、位牌を取り出しに走った父親の悲痛な表情が今でも脳裏に焼き付いています。

二年後には檀徒の喜捨で本堂は再建されたものの、今では無住となった菩提寺。

まさに「兵どもが夢のあと」です。

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まとめtyaiました【城から寺院へ】

峰入りを数日後に控え、坐骨神経痛が強いので前行を取り始めています。腕腰振り振り大股の寺社巡りウォーク60分から、まったりお散歩30分に変更。大きく呼吸しながらのお散歩は気持

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プロフィール

若狭坊

Author:若狭坊
1970年生まれ。奈良大学史学科卒業。当時からの専門は中近世考古学、中近世流通史、中近世都市史。
と書くと難しい(^O^)
現在の専門は仲間と行う歴史を活かしたまちづくり。
だが、実は修験にめざめた山伏なのでアール。

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