中世葬送墓制研究会@小浜


昨日から…

みだしの研究会

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会場には…

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日本遺産
北前船のいかりがあります。

さて、どこでしょう(笑)

ということで、若狭坊は若狭の様相を報告。

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報告・討論会が終わり

宿泊懇親会場へ向かう途中で
市の塔へご案内

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小浜を代表する塔ですからね。

で…今日は

若狭の日引石をめぐる旅

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久々に馬頭さまも南無南無

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午後からは敦賀へ!

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初の南無南無でした

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帰ってきてパック弁当を洗い

蚊に一杯刺され(^_^;)

でも素敵なお土産をもらったから大丈夫!

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ともかく、
久々の研究会。

いい刺激と
勉強と
ネットワークをいただきました。

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越山若水


福井県を表現する言葉に

「越山若水」

という言葉があります。

山々に囲まれ緑豊かな越前国。
清らかな水に育まれた若狭国。

いい言葉ですね☆

若狭湾の美しい海は言うに及ばず。

雲城水を始め豊かな湧水にも育まれる。
命の根元である水を都へ届けたお水送りも伝わる。

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こちらは小浜の町屋の玄関に掲げられるマーク。

家には井戸がありますよ!
というマークです。

「井」の中央に井戸の数を入れます。
井戸が3つだと「井三」となるのですが
写真は自噴の泉がありますよ!というマークです。

なんて素敵なのでしょう♪

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こちらは某寺院の船上観音さま(御前立)。
船にのる観音さまってなんて素敵なのでしょう。


水の国は、これからくずまんじゅうの季節!
楽しみですね。

若水といえば、お正月に神仏にお供えする水ですが

奈良では
「ワカサノミズワイタカワカンカ」
「ワカサワカサ」
なんて汲み上げるそう。

水の国若狭は
最近つくられた言葉ではなく
奈良時代から続くブラント。

いまも生活に信仰に息づいています。

組屋文書

北陸は大雪。
小浜は昼まで快晴が続く。

ただ…いよいよ白くなり始めました。
明日は自警団の新型ポンプお披露目のなのに。

でも白くなる程度でしょう。

さて、

今日は久しぶりに



以外と鯖街道グルメって市内でしてくれていないけど。ここは日本遺産前から提供してくれています。



たまに食べたくなる。
感動する味ではないのですが
たまに欲する懐かしい味なのです。

でお腹一杯で
藤井先生の講演会



小浜出身の歴史学の権威。
京都大学の名誉教授を務められています。

今日のテーマは小浜が誇った豪商組屋にのこった、秀吉の唐入構想を示す「山きち文書」のお話。

豊臣の近くで動いていた小浜の豪商たち。
もともと若狭坊の卒論のテーマだっただけに、もう一度取り組みたいな!と思いました。

小浜が一番ダイナミックに動いていたのが、室町戦国時代です。世界を見据えた港として。

さあ、世界を見据えて再び動き出しましょう。

後瀬山と谷田部


後瀬山は小浜の古くからのシンボル。
小浜の町と港をを包み込むようにそびえています。

若狭坊も毎日職場から遥拝南無南無しております。
中世修験道とも関連のある山で、現在は山頂に愛宕大権現も勧請されていますので。

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さて・・・

万葉集にも詠まれた後瀬山

坂上大嬢
「かにかくに人は言ふとも若狭道の
  後瀬の山の後も逢はむ君」
大伴家持
「後瀬山後も逢はむと思へこそ
  死ぬべきものを今日までも生けれ」


人にどうこう言われようが関係ない。
あなたに再び逢えると思うからこそ死なずに生きてきた。
ラブラブですねぇ。

時を経て、中世前記には神明神社の勧請と連動して修験道を受け入れ、中世後期には小浜港を見下ろす若狭守護武田氏の居城となりました。
近世には、若狭八景や小浜八景の景勝地として認知されていきます。

しかし・・・
文献史・歴史地理学・考古学。
どれをとっても現在の「小浜」の成立は遡っても平安時代末期。

奈良・平安時代の人々は、どこから後瀬山をみていたんだろう。
どこから歌を詠んだんだろう(もちろん現地には来ていないかもしれないが、その背景はどこにあったのだろう)。
昔から若狭坊の疑問でした。


後瀬山はいくつかの当て字があります。
後世や後背っていうのもあります。
港から見たら「後ろが背」って妥当ですよね。
「後世」であれば「前世」との関連も気になる。

このあたり、もっと慎重に考えないといけないのですが・・・

「後ろが瀬」とするならば・・・

どちらかというと、南麓からみた名称なんじゃないの?ってなります。
坂上大嬢も「若狭路の」「後瀬山」と詠んでいます。
南麓の谷田部というところが奈良時代の交通拠点として栄えていたのでは?
とブログ前記事の妙楽寺・・・の部分でも述べたとおりです。

谷田部の低水帯に南川ラグーンが広がっていた景観が想像され、南に向かう丹波街道と東西に伸びる丹後街道の交接地。

谷田部の図2

絶対、奈良時代の大規模港湾集落があるはずなのです。
国府関連の遺跡かもしれないし、郡衙関係の推定地にもなる。
地図を見ていただいても、基本、北川川湊と東西道と南(京や奈良)に接点のある地域に拠点が作られる。
その最終形が小浜港と小浜城下が一体となった現在の市街地なのです。

谷田部の貴重なところは、信仰の山、多田ヶ岳も遥拝できるということ。
だからこそ、現在の小浜八幡の本宮が勧請されたのでしょう。
もちろん港としての存在も大きかったかもしれません。

後瀬山八幡宮というのは、「続日本記」にあるように、実は全国でも本当に早い時期の八幡神受容として知られています。
京都石清水八幡宮より古いんですよ。
宇佐八幡→若狭八幡がもっとも古い奉祀です。

宇佐八幡と若狭神宮寺と東大寺というように、二月堂に見られる八幡さんと若狭、奈良のつながりも面白いですね。
八幡神は渡来神ですから、海と都をつないだ聖地としての若狭も考えられますから、谷田部(八幡辺)の再評価必須です。

ちなみに若狭の八幡は、遠敷に設定される方もいますし、松永八幡という三大絵巻伝承地に設定される方もいるのであしからず。
谷田部派は、今の近隣の研究者の中では少ないかもしれませんが、若狭坊は最も妥当性があると思います。

ともかく、現在の小浜の町の原点が谷田部では?ということなのです。


もう少し微地形探査と遺物探査せんとあきませんね。
谷田部に限定せず、谷田部・野代・左岸の旧尾崎を含め
検証していかないといけません。

でも残念ながら、こういう専門的時間がどんどん削減されてきてる。



何にも縛られない歴史研究家になりたいものです・・・

若狭坊の究極の夢ですね(笑)


後瀬・・・・
後に逢いましょう。
後の世界で。

みたいな感じで、旅の交差点から恋の交差点として全国に知られる存在になった後瀬山。

恋の歌の聖地ですよ。

八百比丘尼の聖地でもあり、
恋愛成就と美の道として、後瀬山から小浜西組コースを売り出していきたいですね。
明治の歌人 山川登美子さんとも連動して。

若狭坊の現在の仕事の方向性です(笑)



どちらも重いものとして仕事していかないといけませぬ!

妙楽寺から小浜の寺の成立を探る


毎日通勤時に遠くから南無南無させていただく寺院に妙楽寺があります。

東南に高山(多田ヶ岳)、西北渓水遠流(南川・小浜湾)という
鎮護国家の梵場としてふさわしい地にあります。

山号は岩屋山。
養老三年、行基優婆塞が観音の降臨を見て
千眼千手の像を岩屋に祀ったのが始まり
延暦十六年に弘法大師が本像をみて伽藍を整えたと伝わります。

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若狭おばまの国宝重文の本堂がほぼ入母屋桧皮葺きなのに対し、
古様を示す優雅な寄棟桧皮葺。

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多田山麓のご本尊の基本はお薬師さまですが
こちらのご本尊は二十四面をもつ珍しい千手観音さま。
向かって左の護摩壇にはお不動さまがいっらっしゃいます。

本堂左には地蔵堂。

右には山岳系の権現さま合祀する六所神社さまと薬師堂。
若狭らしくて、山伏の心をくすぐります。

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地神は彦火火出見尊と豊玉姫。若狭一宮、二宮神を祀ると縁起にはあります。

特に千手様が御本尊であるように、姫神社との関わりが強いようで、
若狭姫神社にあった大般若経は、妙楽寺右手の弘法水という小池の水を使って書写されたそうです。

その後、この大般若経は国家鎮護の神宝として、
市内の密教寺院が順次転読し、日本と若狭を守ってきました。
神仏分離を経て、明治時代以降は、
姫神社から同じ遠敷の神通寺境内にある経蔵に移動保管されています。



いろんなものを見ても、ちょっと特別な寺院として感じてしまうのです。


で、考えてみると。

まず、この寺だけ地域では珍しく行基から弘法大師という
わりと王道ともいえる縁起を伝えています。

神宮寺は滑元、多田寺は勝行など多田山麓が意外と俗くさい
僧名との関係を示しているのに。

ここだけ弘法大師のを伝える。

なぜだろう?



まず行基の関与はどうあれ・・・
多田ヶ岳信仰が本地域の基盤にあるのは間違いないことは何度かブログに書いています。

最初は名前のとおり、多田(多太)神社が多田の北に成立し、
そしてそれに伴う神宮寺として多太寺が創建される。

その後、あるいは、在地信仰とは別の渡来信仰として併行しながら
多田北東に若狭彦姫という後の一宮神の受容が起こり、
その神宮寺として神願寺(後の若狭根本神宮寺)が成立する。

この流れからみると、多田ヶ岳西側の各寺院の成立は、
これらから遅れることになる。
妙楽寺を始め、谷田寺や遠松寺(円照寺)、八幡宮は、
遠敷地域にやや遅れて多田の拠点になっていくようだ。

全体

しかし、姫神社との関係を残すように、まずは妙楽寺だったようですね。


行基や泰澄という名前が見え隠れするように
そもそも多田西麓も民間信仰が徐々に芽生えた拠点だったのでしょうが。

おそらく、谷田部と生守あたりにできる南川河口ラグーンが落ち着いていく中で、
野代から谷田部(八幡辺))あたりに南北交通、東西交通の接点ができ、
水運とあわせて拠点化されていく。
このこととも連動していくようです。

この新拠点受容には、行基や弘法大師というビックネームを担ぎ出す
必要があったのかもしれません。
もちろん、弘法大師の来訪はまったく否定はしません。

当該時期では、間違いなく国家は若狭を聖地として受容しているので。


多田寺・多田神社 → 若狭彦姫・神願(神宮)寺 → 若狭姫・妙楽寺
                       → 阿奈志・羽賀寺

若狭姫・妙楽寺 → 八幡・谷田寺・遠松寺 → 松永八幡・明通寺
阿奈志・羽賀寺 → 内外海密教系社寺


こんな感じの流れになるかな??

あくまでも資料のない在地信仰を置いておいて、仏教受容と連動させた
ものですが。


ともかく・・・
一宮や交通拠点の形成と連動し、より民間に近い場で信仰されていくのです。
だからこそ行基や弘法大師の名が出てくる。



一度参るだけで七難三毒が消え去るといわれていた妙楽寺。

江戸時代、結縁を願って、7月の祭礼日には南川にヒトが溢れたという。

男女の一群が河原に円居して弁当を食べ踊り、
見世物が物売りが数多く出ていたという。

祭礼日にお参りすると36,000日参詣したことになるという信仰があり、
一度参るだけで七難三毒免れるのに、祭礼日に参ると×36,000のご利益。
そりゃ、お参りしますね!


そんな妙楽寺。

敷居の低さがなんとなく感じられ
若狭坊は大好きなのです。

テーマ : ☆北陸(富山・石川・福井)の情報☆
ジャンル : 地域情報

プロフィール

若狭坊

Author:若狭坊
1970年生まれ。奈良大学史学科卒業。当時からの専門は中近世考古学、中近世流通史、中近世都市史。
と書くと難しい(^O^)
現在の専門は仲間と行う歴史を活かしたまちづくり。
だが、実は修験にめざめた山伏なのでアール。

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